ツアー“熱帯果樹を楽しむ”
それは、全くの偶然だった。
50歳を幾分超したある年の正月、何気なくテレビを見ていた私は、やがて画面を食い入るように見つめることとなった。そこに映し出されていたのは、石垣島の圧倒的な迫力で迫る自然の光景だった。テレビが、デフォルメで成り立っているとはいえ、それを凌駕する石垣島の輝きであった。
番組では、石垣島にUターンした方を中心に自然と調和した暮らしが描かれていた。私は、ネットで調べ、その方と連絡を取った。幾通のやり取りをし、日程を調整し、石垣島に降り立ったのは、春であった。
レンタカーを走らせると、春の暖か過ぎる陽光と強い磯の匂いがやってきた。それは、どこか懐かしいふるさとの匂いでもあった。私の故郷は、名高いリアス式海岸の町だった。高度成長のもとで破壊されつくした美しく豊かな海辺。コンクリートの厚い壁が、海岸を覆い、匂いまでも消し去った。便利な生活をすべての人が手に入れたが、その代償は少なくなかった。
島からの風が、ひらひらと心に舞い降りた“そうだ石垣島に住もう”
漠然と東京に住み続けることに不安を感じていた私に、躊躇はなかった。
それから定年後の青写真作りが始まる。
終の棲家を石垣島とし、定年退職後の長い人生、何をやるかが問題である。仕事一筋人間の私に、これと言った趣味はない。定番の焼き物作り、これは3ケ月で止めた。自分のイメージと出来上がったものの差が余りにも大きかったのである。パン教室・キャンドル作りそして今でも続けている蕎麦打ち、だが、どれも他人のお仕着せのようで、自分のオリジナリティーではない。
生涯働き続ける何かを模索した。体を動かし、時間を忘れ、熱中できるもの。体力の続く限り継続できるもの。努力の結果が形となって現れるもの。還暦間近の手習いでも何とかなりそうだと思い至ったのが果樹栽培である。
定年退職の後、石垣島に移住した。
しかし、農業未経験、植物にさほど興味を持ったことのない私にとって、果樹栽培への道は険しかった。最初の関門は、専門書を読んでも、内容が全く頭に入ってこない。もちろん日本語はわかるのだが、感覚がついていけない、異次元の世界であった。来る日も来る日も専門書を読み漁る日が続いた。
そんな試行錯誤の時期、熱研の先生から、「苗は自ら作るもの」と教えていただいた。ウイルスを園内に持ち込まないことは無論、病害虫に遭っても微妙な変化しか起こさない果樹。その細かな症状を発見して対策する。そのためには、注視し、想像力をめぐらせるしかない。市販の苗を買って枯れさせても、また買えばいいと思えば注意力は激減する。私は、先生の言葉をこのように解釈している。
石垣島の中央部に運よく果樹栽培に適した土地を手に入れることができた。
次は、何を栽培するかである。そんな折、果樹栽培数十年の師匠と出会った。実践を通じて私の果樹栽培技術は飛躍的に向上した。果樹栽培は、きわめて高いノウハウの塊である。専門書と実践とを行わなければならないと実感した。
そして出会ったのが、レモンである。それまで、スーパーなどで売っている市販のレモンしか食べたことのない私にとって、それは驚きのテイストであった。「これがレモン?!」
このレモンは、1050年代、ハワイ大学のヘンリー仲宗根博士が、当時ハワイ大学で栽培していたマイヤーレモン(オレンジとレモンの交配種)の枝をもって石垣島を来島した。これをシークワーサーに接ぎ木し、たわわに実るようになったという。沖縄出身三世の博士。復興にかける情熱は並々ならぬものがあったという。
このレモンは、美味しさもさることながら病害虫や強風にも強く、石垣島で栽培するのに最適のレモンであることが分かった。現在、この優良品種のレモンを有機栽培によってさらに高品質にし、送料着払いでネット販売し、完売状態が続いている。
一方、専門書を読みながら、植物の生態を自分なりにまとめるのには、7年の歳月を必要とした。それは、植物が進化の過程で得た生存するための機能の発見でもあった。誰でも理解できるわかりやすい表現で、合理的で巧緻な植物の生存への適応力を紹介することが次のテーマとなった。
そして、熱帯果樹を実際に触って、植物の生きる知恵を紹介するツアーを開始した。ゲストの方々から「エーッ」と言う驚きの声を聴くのが楽しみである。
果樹園では、今日もさわやかな風が吹いている。
植物の蒸散による気化熱で真夏でもクーラーはいらない。これも植物の力だ。
静謐な時がゆっくりと流れ、四季折々様々な果樹が楽しめる。植物と共生し、感謝する日々だ。